こだわり  こだわりが強すぎる人は、社会では除け者扱いをされてしまいがちだ。別の言い方をすれば、我が強い人、ということにもなる。または、個性が強い人やもしかしたら理想主義者・完璧主義者とも言われてしまう。もっと柔軟性をもって、双方のいい塩梅を見つけて妥協しろ、と注意をされる。この場合、ひとつ違和感を覚えることがある。こだわりが強い人は自分の思いを塞ぎ込むことでその場を鎮静させ、こだわらない人に関しては何も抑圧はされずにすむ。ただ、周囲との融通を効かせることに長けているから、ヒーローとして評価される。こだわりを相手に強要することは、わりと良くない風潮として社会では漂っている。確かに、どこで妥協点を見つけることは人との関係においては重要なことだ。それを無くすと、わがままな人であると関係を断ち切られてしまうから。いわゆる、ゆとり世代は個性を重んじる教育を受けたとして歴史的には記載されていくのだろう。もっと自分らしく、もっとありのままがいいのだと偉い人が、そういう流れを作ったから、彼らの世代は個性を重んじているのに。こだわりは、これからはもっと重要視されていくのだと思う。こだわりがあるからこそ、人でいられるんだもん。

こだわり

こだわりが強すぎる人は、社会では除け者扱いをされてしまいがちだ。別の言い方をすれば、我が強い人、ということにもなる。または、個性が強い人やもしかしたら理想主義者・完璧主義者とも言われてしまう。もっと柔軟性をもって、双方のいい塩梅を見つけて妥協しろ、と注意をされる。この場合、ひとつ違和感を覚えることがある。こだわりが強い人は自分の思いを塞ぎ込むことでその場を鎮静させ、こだわらない人に関しては何も抑圧はされずにすむ。ただ、周囲との融通を効かせることに長けているから、ヒーローとして評価される。こだわりを相手に強要することは、わりと良くない風潮として社会では漂っている。確かに、どこで妥協点を見つけることは人との関係においては重要なことだ。それを無くすと、わがままな人であると関係を断ち切られてしまうから。いわゆる、ゆとり世代は個性を重んじる教育を受けたとして歴史的には記載されていくのだろう。もっと自分らしく、もっとありのままがいいのだと偉い人が、そういう流れを作ったから、彼らの世代は個性を重んじているのに。こだわりは、これからはもっと重要視されていくのだと思う。こだわりがあるからこそ、人でいられるんだもん。

目を養う  目が悪いなら、目を養いなさい。と言われた。単純に、視力のことではなくて、見る視点を養うということだ。以前、とある人とサシ飲みをした際に教えていただいたこと。「同じ人と、二度目三度目と会うのが苦手なんです」そう相談をした。「なんでかな?」「話すことがなくなってしまうからです」一度目で自分の全てを根掘り葉掘りと話してしまうがために、二度目三度目になるともう自分のネタが尽きてしまうのだ。そうすると、ただひたすらに相槌を打つ人となってしまい、向こうにも退屈な人であると思われてしまうのが少しこわい。だから、二度目三度目と同じ人と会うのが怖いのだと相談をした。そうすると、その人は最初の一文のように答えたのだ。そしてこうも言った。「同じ内容の話でも、異なった視点から話すことができれば、一つの出来事でも、いろいろと膨らますことができるんだよ」確かに、と思った。これはコピーライティングでも重要なことで、一つの商品に対して様々な観点から文言で訴求をしていく。一つの観点からして物事を捉えられていないのは、本来のターゲットへのリーチの可能性が狭くなってしまう。同じ人と、何度も会うこと。そして、様々な観点から話をすること。目を養うのには、同じ人と何度も会話をすることが必要なんだなあ。

目を養う

目が悪いなら、目を養いなさい。と言われた。単純に、視力のことではなくて、見る視点を養うということだ。以前、とある人とサシ飲みをした際に教えていただいたこと。「同じ人と、二度目三度目と会うのが苦手なんです」そう相談をした。「なんでかな?」「話すことがなくなってしまうからです」一度目で自分の全てを根掘り葉掘りと話してしまうがために、二度目三度目になるともう自分のネタが尽きてしまうのだ。そうすると、ただひたすらに相槌を打つ人となってしまい、向こうにも退屈な人であると思われてしまうのが少しこわい。だから、二度目三度目と同じ人と会うのが怖いのだと相談をした。そうすると、その人は最初の一文のように答えたのだ。そしてこうも言った。「同じ内容の話でも、異なった視点から話すことができれば、一つの出来事でも、いろいろと膨らますことができるんだよ」確かに、と思った。これはコピーライティングでも重要なことで、一つの商品に対して様々な観点から文言で訴求をしていく。一つの観点からして物事を捉えられていないのは、本来のターゲットへのリーチの可能性が狭くなってしまう。同じ人と、何度も会うこと。そして、様々な観点から話をすること。目を養うのには、同じ人と何度も会話をすることが必要なんだなあ。

洞窟の出口  何か選択をするとき、ずっと迷ってしまうのは良くない。こっちを選ぼうか、あっちを選ぼうか、どちらを選ぼうかと迷って、結局は何も選ばずに何もしない人になる。判断する際には、明確な理由があることは大事だ。理由が明確であればあるほど、選択で後悔する可能性は狭まる。だからといって、理由を明確にするために時間を使うのはバカバカしいと思う。理由を探すのは、選択の強度を高めるだけであって、その先のことを忘れてしまっている。手段と目的の倒錯というのは頻繁に起こりやすい。目的を果たすための手段が、目的化してしまい、その手段を達成するために労力を費やしてしまう。これに関して、一つの例え話がある。洞窟に迷い込んでしまって、出口を探している。出口らしきところは数ヶ所があるが、どれが本物の出口かわからない。でももし、一つだけ明かりのある出口があればどうだろう。なりふり構わずその道を行くだろう。何を信じていいのかわからなくなることがある。そうであっても、その場に留まっていては何も始まらない。まずは明かりのある方へ足を運んでみる。そうしていれば、いつか出口に出られると信じて。

洞窟の出口

何か選択をするとき、ずっと迷ってしまうのは良くない。こっちを選ぼうか、あっちを選ぼうか、どちらを選ぼうかと迷って、結局は何も選ばずに何もしない人になる。判断する際には、明確な理由があることは大事だ。理由が明確であればあるほど、選択で後悔する可能性は狭まる。だからといって、理由を明確にするために時間を使うのはバカバカしいと思う。理由を探すのは、選択の強度を高めるだけであって、その先のことを忘れてしまっている。手段と目的の倒錯というのは頻繁に起こりやすい。目的を果たすための手段が、目的化してしまい、その手段を達成するために労力を費やしてしまう。これに関して、一つの例え話がある。洞窟に迷い込んでしまって、出口を探している。出口らしきところは数ヶ所があるが、どれが本物の出口かわからない。でももし、一つだけ明かりのある出口があればどうだろう。なりふり構わずその道を行くだろう。何を信じていいのかわからなくなることがある。そうであっても、その場に留まっていては何も始まらない。まずは明かりのある方へ足を運んでみる。そうしていれば、いつか出口に出られると信じて。

自分の価値観を知る  一度会った人と、もう一度会うのが怖いことがある。暴力的な話でも、特定の個人の話でもなく、それは自分の底を知られてしまうことへの恐怖だ。以前、仲が良い友人に「薄い」と言われたことがある。その時は、マナーについて説かれたが、薄いにも他の理由があることがなんとなくわかった。一度会った人ともう一度会うと、どうにもテンションが上がらない自分がいた。何度も同じ話を聞くから滅入ってしまっているからだ。だが、これら相手の責任ではない。自分が相手の底を聞き出すための質問力がなかったから。そして、自分が自身の話をしようとしなかったことにもある。というよりも、話ができなかった。自分の底が浅いことの事実を知る恐怖があったから。それを全て他人のせいにして自分を守ってしまっていた。嫌われてもいいし、退屈な人だと思われてもいい。相手と深く接することで、自分の深いところも出すことが大切なんだ。大切な人を作ること、そしてその人たちに自分の話をとことんすること。全ては自分の価値観を知る特訓なのだ。

自分の価値観を知る

一度会った人と、もう一度会うのが怖いことがある。暴力的な話でも、特定の個人の話でもなく、それは自分の底を知られてしまうことへの恐怖だ。以前、仲が良い友人に「薄い」と言われたことがある。その時は、マナーについて説かれたが、薄いにも他の理由があることがなんとなくわかった。一度会った人ともう一度会うと、どうにもテンションが上がらない自分がいた。何度も同じ話を聞くから滅入ってしまっているからだ。だが、これら相手の責任ではない。自分が相手の底を聞き出すための質問力がなかったから。そして、自分が自身の話をしようとしなかったことにもある。というよりも、話ができなかった。自分の底が浅いことの事実を知る恐怖があったから。それを全て他人のせいにして自分を守ってしまっていた。嫌われてもいいし、退屈な人だと思われてもいい。相手と深く接することで、自分の深いところも出すことが大切なんだ。大切な人を作ること、そしてその人たちに自分の話をとことんすること。全ては自分の価値観を知る特訓なのだ。

未来の話  もし今から会社を作ったとします。そしたら、数年仕事探しに勤しむでしょう。5年かかったとして、30歳オーバーです。仕事をします。ただひたすらに自分が正義だと思う仕事をこなします。そして、今までの仕事で得た高評価の蓄積で、ふと大きな、生活を転じるような仕事(プロジェクト)が降ってくるとします。それを5年掛けてやるとします。おそらく40歳です。その後は、会社を存続させることを考えるでしょう。時代に、社会に、人に合わせて、会社を変えていかなきゃいけないのです。やることは、きっと多い。精一杯に、ひたむきに、やる続けるとします。50歳です。その頃のことは、正直わかりません。家無し子無し一文無しの死に損ないの人になっているか。ある程度の貯金と笑顔溢れた家族に囲われた幸せな人になっているか。どっちに転がるのかは、わかりません。けれど、自分の正義を無視して生きることは、どうしてもしたくないなあ。

未来の話

もし今から会社を作ったとします。そしたら、数年仕事探しに勤しむでしょう。5年かかったとして、30歳オーバーです。仕事をします。ただひたすらに自分が正義だと思う仕事をこなします。そして、今までの仕事で得た高評価の蓄積で、ふと大きな、生活を転じるような仕事(プロジェクト)が降ってくるとします。それを5年掛けてやるとします。おそらく40歳です。その後は、会社を存続させることを考えるでしょう。時代に、社会に、人に合わせて、会社を変えていかなきゃいけないのです。やることは、きっと多い。精一杯に、ひたむきに、やる続けるとします。50歳です。その頃のことは、正直わかりません。家無し子無し一文無しの死に損ないの人になっているか。ある程度の貯金と笑顔溢れた家族に囲われた幸せな人になっているか。どっちに転がるのかは、わかりません。けれど、自分の正義を無視して生きることは、どうしてもしたくないなあ。

根拠の無い自信  自信というのは、どこから生まれるのかを考えていた。根拠のない自信、という不可思議なカタチをしたものがある。人様に提示できるような実績や結果はないけれど、大言壮語、物凄い自信に満ちた語り口調で自身の未来や可能性について語る。こうした自身が生まれる背景って、やっぱり日本ならではなのかなって思う。日本に責任を押し付けるわけでもないのだけれど、やっぱりここにいる限りなんとかなってしまうのが事実な気がする。得るものが多すぎるから、捨て方を忘れてしまうんだ。捨てても捨てても、また、どんどんなにかを得られる。そして、何が自分にとって必要なのかも取捨選択できぬまま、不安定な自分のまま満ち足りない欲求を叶えるために、理想だけが先行してしまうような状況。確かに、背伸びすることは悪いことではないし、野望を叶えるためにはストイックに自分を追い詰める過程は不可欠だろう。ただ、それで自分の自己分析を怠ってしまうのは、成功の確率を下げてしまうのが勿体無い。結局のところ、自分ができることを、自分が強みだと思う領域で、結果を残せるようになれたら、それが自信に繋がるんじゃないかな、と思う。自信ってのは、相手からの高評価が蓄積したものであるべきなんじゃないかな、と思った。

根拠の無い自信

自信というのは、どこから生まれるのかを考えていた。根拠のない自信、という不可思議なカタチをしたものがある。人様に提示できるような実績や結果はないけれど、大言壮語、物凄い自信に満ちた語り口調で自身の未来や可能性について語る。こうした自身が生まれる背景って、やっぱり日本ならではなのかなって思う。日本に責任を押し付けるわけでもないのだけれど、やっぱりここにいる限りなんとかなってしまうのが事実な気がする。得るものが多すぎるから、捨て方を忘れてしまうんだ。捨てても捨てても、また、どんどんなにかを得られる。そして、何が自分にとって必要なのかも取捨選択できぬまま、不安定な自分のまま満ち足りない欲求を叶えるために、理想だけが先行してしまうような状況。確かに、背伸びすることは悪いことではないし、野望を叶えるためにはストイックに自分を追い詰める過程は不可欠だろう。ただ、それで自分の自己分析を怠ってしまうのは、成功の確率を下げてしまうのが勿体無い。結局のところ、自分ができることを、自分が強みだと思う領域で、結果を残せるようになれたら、それが自信に繋がるんじゃないかな、と思う。自信ってのは、相手からの高評価が蓄積したものであるべきなんじゃないかな、と思った。

自責の念  自責の念を忘れてはいけない。自責の念とは、チームやグループでの活動において、過ちや間違いが起こった際、自分自身の行動に非があったのだと考えなおすことだ。チームやグループといった複数人で活動をすると、必ずといっていいほど認識のずれや誤認識は発生してしまうものだ。そのとき、その事象を他人のせい(他責)にしてはいけない。例えば、「彼がああ言ったから私はこうした」とか「私はちゃんと伝えたのにあの人が確認をしてくれなかった」みたいな言い方をして、チームの非を自分以外の誰かの向けてしまうこと。他責癖がつくと、その人は成長をしなくなる。過ちや間違いの事象を他人やチームの責任にすることで、自分の中の次なる打ち手を考えなくなるからだ。『今回、チームで認識のずれがあった。それは自分が正確に物事を伝えなかったから』⇒『ならば次は、紙に書いて伝えてみよう』とか『相手に実際に説明をさせてみよう』とか『10分に一回、共通認識を深めるコミュニケーションをとってみよう』とか次なる改善案が発生する。他責癖が付いてしまっている人が、自責する習慣にするのには相当な労力がかかるだろう。それでも、一歩一歩、考えを変えて、打ち手を変えて、習慣を変えていくことは必要なのだろう。

自責の念

自責の念を忘れてはいけない。自責の念とは、チームやグループでの活動において、過ちや間違いが起こった際、自分自身の行動に非があったのだと考えなおすことだ。チームやグループといった複数人で活動をすると、必ずといっていいほど認識のずれや誤認識は発生してしまうものだ。そのとき、その事象を他人のせい(他責)にしてはいけない。例えば、「彼がああ言ったから私はこうした」とか「私はちゃんと伝えたのにあの人が確認をしてくれなかった」みたいな言い方をして、チームの非を自分以外の誰かの向けてしまうこと。他責癖がつくと、その人は成長をしなくなる。過ちや間違いの事象を他人やチームの責任にすることで、自分の中の次なる打ち手を考えなくなるからだ。『今回、チームで認識のずれがあった。それは自分が正確に物事を伝えなかったから』⇒『ならば次は、紙に書いて伝えてみよう』とか『相手に実際に説明をさせてみよう』とか『10分に一回、共通認識を深めるコミュニケーションをとってみよう』とか次なる改善案が発生する。他責癖が付いてしまっている人が、自責する習慣にするのには相当な労力がかかるだろう。それでも、一歩一歩、考えを変えて、打ち手を変えて、習慣を変えていくことは必要なのだろう。

読書中に・・・   本を読んでいると、ふと言葉を紡ぎたくなる。言葉一つひとつが持つイメージが、頭の中で拡がってはくっついて、それが自分の過去の思い出を呼び起こす。その思い出を忘れないように、スマートフォンを取り出して、メモ帳に言葉を残すのだ。言葉を紡ぐとは、なかなか面白い表現だと思う。言葉の一葉一葉を繋ぎあわせて、繭の繊維を糸にするように、小さな小さな文字たちを繋ぎあわせて言葉にしていく。頭の中で、自分の言葉を紡ぎたくなったとき、そう感じた瞬間からはもう本の内容は頭に入ってこない。ただただ、ボーッと物思いに耽るだけ。そういう時間を無駄だと言う人がいて、考えていないで行動しろとも言ってくる。でも、こういう時間があることは大切な時間だと思うし、忘れていたことを思い出させる方法を自分の中で持っておくことは、有意義に生きる上で役立ってくるんじゃないのかな。

読書中に・・・

本を読んでいると、ふと言葉を紡ぎたくなる。言葉一つひとつが持つイメージが、頭の中で拡がってはくっついて、それが自分の過去の思い出を呼び起こす。その思い出を忘れないように、スマートフォンを取り出して、メモ帳に言葉を残すのだ。言葉を紡ぐとは、なかなか面白い表現だと思う。言葉の一葉一葉を繋ぎあわせて、繭の繊維を糸にするように、小さな小さな文字たちを繋ぎあわせて言葉にしていく。頭の中で、自分の言葉を紡ぎたくなったとき、そう感じた瞬間からはもう本の内容は頭に入ってこない。ただただ、ボーッと物思いに耽るだけ。そういう時間を無駄だと言う人がいて、考えていないで行動しろとも言ってくる。でも、こういう時間があることは大切な時間だと思うし、忘れていたことを思い出させる方法を自分の中で持っておくことは、有意義に生きる上で役立ってくるんじゃないのかな。

自分の仕事を好きになりたい。最近、いろいろな人に会うのだけれど、みんなそれぞれ自分の仕事を楽しそうに話してくる。「私の話が伝わってるのか全然わかんないんだけど、いい写真が撮れたんだよね」みたいな話を聞くと、なんだかすごい羨ましい気持ちになる。自分が好きなものを相手に紹介する仕草が、本当に楽しそうで心の底から応援したくなるのだ。これって、求人採用なんかにも言えることなんだと思うんだけど、理路整然と会社の良さとか売上がどうとか社会に貢献してるとかって求人サイドは話してしまいがちだけど、これって実際のところ採用サイドからすると聞き飽きてるし、質問に対しては穴だらけな回答なんだと思うんだよね。会社の良さとか社会貢献とか、どこの会社でも同じことが言えるわけだし、まるっきり形態が違う会社なんて珍しいんじゃないかな。だから、そうではなくて、この採用サイドが応援したくなる気持ちを汲むことが大事で、自分の好きなことをどれくらい熱く語れるのか。好きなことをどう活かしていきたいのか、みたいなことが採用サイドでは聞きたいんだと思う。これが嫌あれが嫌って語る人よりも、これが好きあれが好きって語る人の方が、話していて気持ちが良い。まずは、自分の仕事を好きになること。そして、自分の仕事を語れるようになることが必要なんだろうなあ。

自分の仕事を好きになりたい

自分の仕事を好きになりたい。最近、いろいろな人に会うのだけれど、みんなそれぞれ自分の仕事を楽しそうに話してくる。「私の話が伝わってるのか全然わかんないんだけど、いい写真が撮れたんだよね」みたいな話を聞くと、なんだかすごい羨ましい気持ちになる。自分が好きなものを相手に紹介する仕草が、本当に楽しそうで心の底から応援したくなるのだ。これって、求人採用なんかにも言えることなんだと思うんだけど、理路整然と会社の良さとか売上がどうとか社会に貢献してるとかって求人サイドは話してしまいがちだけど、これって実際のところ採用サイドからすると聞き飽きてるし、質問に対しては穴だらけな回答なんだと思うんだよね。会社の良さとか社会貢献とか、どこの会社でも同じことが言えるわけだし、まるっきり形態が違う会社なんて珍しいんじゃないかな。だから、そうではなくて、この採用サイドが応援したくなる気持ちを汲むことが大事で、自分の好きなことをどれくらい熱く語れるのか。好きなことをどう活かしていきたいのか、みたいなことが採用サイドでは聞きたいんだと思う。これが嫌あれが嫌って語る人よりも、これが好きあれが好きって語る人の方が、話していて気持ちが良い。まずは、自分の仕事を好きになること。そして、自分の仕事を語れるようになることが必要なんだろうなあ。

リアルを生きよう  事実は小説より奇なりというが、まさしくそうだと思う。人生、本に消耗されるのは良くない。確かに、本や小説を読むことは大事なこと。本を読まない人は知性を感じさせることはできないし、何か困難にぶつかった時対処することができない。本の素晴らしい特徴は、誰かの経験を疑似体験できることにあると思う。体験によって得た知識を、アイデアの要素として捏ねくり回す。本を読むというのはそういう利点もある。だけど、本ばかり読んでいては勿体無いとも思う。図書館やカフェで読書をしている間も、外の景色は変わっていく。自然の中の空気はとても美味しい。そして、太陽の日差しも気持ち良い。公園に行けば、子どもが小さい身体で飛び回り、水遊びをしている姿も見ることができる。子どもの笑い声もそこにいれば聞こえる。もしかしたら、何かストーリーが始まるかもしれない。でも、家の中で読書ばかりしていては、何も物語は始まらない。あくまで本の中の主人公が困難に立ち向かうだけだ。実際に、自分自身が、街へ行き、人と会い、何かを始める。そのひとつひとつの出来事が自分自身の物語なのだ。事実は小説より奇なり、リアルを生きよう。

リアルを生きよう

事実は小説より奇なりというが、まさしくそうだと思う。人生、本に消耗されるのは良くない。確かに、本や小説を読むことは大事なこと。本を読まない人は知性を感じさせることはできないし、何か困難にぶつかった時対処することができない。本の素晴らしい特徴は、誰かの経験を疑似体験できることにあると思う。体験によって得た知識を、アイデアの要素として捏ねくり回す。本を読むというのはそういう利点もある。だけど、本ばかり読んでいては勿体無いとも思う。図書館やカフェで読書をしている間も、外の景色は変わっていく。自然の中の空気はとても美味しい。そして、太陽の日差しも気持ち良い。公園に行けば、子どもが小さい身体で飛び回り、水遊びをしている姿も見ることができる。子どもの笑い声もそこにいれば聞こえる。もしかしたら、何かストーリーが始まるかもしれない。でも、家の中で読書ばかりしていては、何も物語は始まらない。あくまで本の中の主人公が困難に立ち向かうだけだ。実際に、自分自身が、街へ行き、人と会い、何かを始める。そのひとつひとつの出来事が自分自身の物語なのだ。事実は小説より奇なり、リアルを生きよう。

これからの生きていくテーマを決めた。強くあること。結局誰かに頼っていたり、何かが守ってくれていたりするけれど、そろそろ一人立ちする頃合い。ただ、誰にも頼らないというのは、それは強さではないと思う。自分の弱さや欠点を知った上で、誰かと接することが大事なんだろう。誰にも頼らないでなんでもできると思ったら大間違い。外から見たらそれはただの虚栄でしかない。弱さを隠すために強がっているにすぎない。強風の中でもしっかりと自分の脚で立って、前に進むことだ。あわよくば誰かに荷物を持ってもらおうとはしないこと。自分の荷物は自分で持つ。辛くても、前に進む。そうしていれば、いつか自分の荷物が軽く感じるようになって、誰かの荷物を持ってあげようという余裕も生まれてくる。それが強さの中にある優しさなのだろう。

強くあれ

これからの生きていくテーマを決めた。強くあること。結局誰かに頼っていたり、何かが守ってくれていたりするけれど、そろそろ一人立ちする頃合い。ただ、誰にも頼らないというのは、それは強さではないと思う。自分の弱さや欠点を知った上で、誰かと接することが大事なんだろう。誰にも頼らないでなんでもできると思ったら大間違い。外から見たらそれはただの虚栄でしかない。弱さを隠すために強がっているにすぎない。強風の中でもしっかりと自分の脚で立って、前に進むことだ。あわよくば誰かに荷物を持ってもらおうとはしないこと。自分の荷物は自分で持つ。辛くても、前に進む。そうしていれば、いつか自分の荷物が軽く感じるようになって、誰かの荷物を持ってあげようという余裕も生まれてくる。それが強さの中にある優しさなのだろう。

結局、みんな思い行き着く先は一緒で、自分はここにいるんだよと世の中の人もしくは自分の周辺に知らしめたいのだろうな、と思う。ある人は、その承認欲の幅は、とてつもなく広く、自分のことを知らない人がいることが許せないほどのものである。またある人は、狭い領域で、関わる人だけには自分の存在意義を知っていて欲しい人もいる。これも人それぞれ。どこかで聞いた話なんだけど、ひとりでいることはタバコを吸うのと同じくらい身体に悪いらしい。結局、人と人とは繋がりが大切なんだ。苦行をして、座禅を組んで、考え抜いた釈迦も、我々には縁起が大事、だと結論づけている。人との繋がりの中で、自分が何者なのかを認知されたい。貴重な時間を何に当て、どれくらい入り込めるかってことが重要なんだと思うよね。身体に良いことをしていきたいね。

認知

結局、みんな思い行き着く先は一緒で、自分はここにいるんだよと世の中の人もしくは自分の周辺に知らしめたいのだろうな、と思う。ある人は、その承認欲の幅は、とてつもなく広く、自分のことを知らない人がいることが許せないほどのものである。またある人は、狭い領域で、関わる人だけには自分の存在意義を知っていて欲しい人もいる。これも人それぞれ。どこかで聞いた話なんだけど、ひとりでいることはタバコを吸うのと同じくらい身体に悪いらしい。結局、人と人とは繋がりが大切なんだ。苦行をして、座禅を組んで、考え抜いた釈迦も、我々には縁起が大事、だと結論づけている。人との繋がりの中で、自分が何者なのかを認知されたい。貴重な時間を何に当て、どれくらい入り込めるかってことが重要なんだと思うよね。身体に良いことをしていきたいね。

学生時代にやるべきことは、どん底に陥ったときでも、自分を見失わず取り戻せる訓練をしたかどうかが大事なんだと思う。社会人になり、毎日が忙しく、プライベートもろくに過ごせないで、辞めたいと愚痴を零すようになる。そして、会社のデキる同期や先輩に弱音を吐くとする。そうすると、あなたの周りの人達はきっとこう言ってくるだろう。「3年は働いた方がいい」「何の取り柄もないのに転職できると思ってるの?」「実績も経験もないのに、辞めてどうするの?」そうすると、それならスキルが付くまで我慢しようか、、、とか何か実績を作れるまでやり続けようとか、我慢の日々が始まる。我慢して我慢して、自分の考えを殺めて、そうしていくうちに本当の自分を見失ってしまう。自分が本来やりたかったことがわからなくなる。現状の中で納得のいく理由を探すようになる。我慢することはとても大事だ。忍耐力のない成功者などはいないと思う。ただ、その我慢が本当に意味があるのか問うべきだろう。学生時代にやるべきことは、周りの批判や否定に惑わされずに、自分を取り戻せるようになっておくべきだ。「でも、自分はこう思う、だからこうする」と、あるべき自分の姿を手に入れようとすることだ。頑固になれ、というわけではなく、あくまで素の自分を内側に秘めておくということだ。

学生時代にやっておくべきこと

学生時代にやるべきことは、どん底に陥ったときでも、自分を見失わず取り戻せる訓練をしたかどうかが大事なんだと思う。社会人になり、毎日が忙しく、プライベートもろくに過ごせないで、辞めたいと愚痴を零すようになる。そして、会社のデキる同期や先輩に弱音を吐くとする。そうすると、あなたの周りの人達はきっとこう言ってくるだろう。「3年は働いた方がいい」「何の取り柄もないのに転職できると思ってるの?」「実績も経験もないのに、辞めてどうするの?」そうすると、それならスキルが付くまで我慢しようか、、、とか何か実績を作れるまでやり続けようとか、我慢の日々が始まる。我慢して我慢して、自分の考えを殺めて、そうしていくうちに本当の自分を見失ってしまう。自分が本来やりたかったことがわからなくなる。現状の中で納得のいく理由を探すようになる。我慢することはとても大事だ。忍耐力のない成功者などはいないと思う。ただ、その我慢が本当に意味があるのか問うべきだろう。学生時代にやるべきことは、周りの批判や否定に惑わされずに、自分を取り戻せるようになっておくべきだ。「でも、自分はこう思う、だからこうする」と、あるべき自分の姿を手に入れようとすることだ。頑固になれ、というわけではなく、あくまで素の自分を内側に秘めておくということだ。

その人から発せられる言葉の重みというのは、その人の経験によって重みは変わってくるのだろう。今までどんな人と出会ってきて、どんな出来事を経験してきて、どんな挫折を味わって、それをちゃんと乗り越えてきたかで、言葉の重みというのは変わってくる。同じ言葉でも、発する人によって浅く聞こえたり、何も伝わってこなかったりする。それは受け手にはしっかりと伝わっていて、例えば人を励まそうとして安易な言葉を選んでしまうと不快感を与えることにもなる。人の気持ちがわからないなら、その場しのぎで分かった気になんてならないで、何も言わないのも、その人のためを思っていることになるんじゃないかな。

言葉の重み

その人から発せられる言葉の重みというのは、その人の経験によって重みは変わってくるのだろう。今までどんな人と出会ってきて、どんな出来事を経験してきて、どんな挫折を味わって、それをちゃんと乗り越えてきたかで、言葉の重みというのは変わってくる。同じ言葉でも、発する人によって浅く聞こえたり、何も伝わってこなかったりする。それは受け手にはしっかりと伝わっていて、例えば人を励まそうとして安易な言葉を選んでしまうと不快感を与えることにもなる。人の気持ちがわからないなら、その場しのぎで分かった気になんてならないで、何も言わないのも、その人のためを思っていることになるんじゃないかな。

すべてを同時に得ようとするのは烏滸がましい。人生を謳歌する上で、優先順位を決めることはとても大事なことです。すべての欲望を同時に満たそうとすると、どちらかいずれかが上手くいかなくなる。これは理屈でなく、あくまで感覚的なものになってしまうけれども。叶えたいことなんて挙げていけばきりがない。例えば、仕事で出世もしたいし、自分のしたいこともしたいし、結婚もしたいし、漫画も読みたいし、旅行にも行きたいし、勉強もしたいし…。身体は一つ、時間も不可逆的なもの、すべての欲求を並行して満たしていくのは至難の業だ。だからこそ、欲望にも緊急性と重要性の二軸をたて、物事に優先順位をつけていく。自分に問いかけ、優先順位が高いものから、まず一つの目標を叶える。一つ叶えれば、次またその次と決めていけば良い。というか、一つ決まれば、自ずと次も決まってくるもんだ。一つを満たせば、人はまた高みを望みたがる。まずは、一歩ずつ。

欲望

すべてを同時に得ようとするのは烏滸がましい。人生を謳歌する上で、優先順位を決めることはとても大事なことです。すべての欲望を同時に満たそうとすると、どちらかいずれかが上手くいかなくなる。これは理屈でなく、あくまで感覚的なものになってしまうけれども。叶えたいことなんて挙げていけばきりがない。例えば、仕事で出世もしたいし、自分のしたいこともしたいし、結婚もしたいし、漫画も読みたいし、旅行にも行きたいし、勉強もしたいし…。身体は一つ、時間も不可逆的なもの、すべての欲求を並行して満たしていくのは至難の業だ。だからこそ、欲望にも緊急性と重要性の二軸をたて、物事に優先順位をつけていく。自分に問いかけ、優先順位が高いものから、まず一つの目標を叶える。一つ叶えれば、次またその次と決めていけば良い。というか、一つ決まれば、自ずと次も決まってくるもんだ。一つを満たせば、人はまた高みを望みたがる。まずは、一歩ずつ。

何か物事を決める際、得るものもあれば捨てるものもある。例えば、デスクワーカーは外に出ることが少なく、暑い夏の日なんかでは冷房の聞いたオフィスで仕事をすることができるけれども、太陽の日差しが気持ち良いときですら電球から発される一定の明かりのみをただただ朝から晩まで浴び、身体を使うことなく椅子に座って仕事をする。オフィスワーカーは、営業が外に出て仕事をするということに憧れを抱く場合が多い。ただ一方で、営業は暑い日も夏の日も雨の日も、外に出てお客様の所に行かなくてはいけない。彼らは彼らなりに、冷房の効いたオフィスで仕事をするということに羨ましい気持ちを抱いている。営業もデスクワークもどちらにも良いところがあれば悪いこともある。仕事に不満を持つ場合もしくは転職をする際、労働環境を理由にしてしまうのは相手への印象は悪くなってしまうと思う。オフィスワーカーがその環境を理由にして転職をしても、次も同じような悩みを抱えがちになると思う。だって、隣の芝生は青く見えるから。転職をするためには将来自分が社会に対して何を寄与していきたいのかということを考えて、その会社が社会に何を寄与しているのか考えて、それがマッチするのかどうなのかということで判断するのが、現状に不満を抱く彼らの良い転職になるんじゃないのかな、と思う。

トレード・オフ

何か物事を決める際、得るものもあれば捨てるものもある。例えば、デスクワーカーは外に出ることが少なく、暑い夏の日なんかでは冷房の聞いたオフィスで仕事をすることができるけれども、太陽の日差しが気持ち良いときですら電球から発される一定の明かりのみをただただ朝から晩まで浴び、身体を使うことなく椅子に座って仕事をする。オフィスワーカーは、営業が外に出て仕事をするということに憧れを抱く場合が多い。ただ一方で、営業は暑い日も夏の日も雨の日も、外に出てお客様の所に行かなくてはいけない。彼らは彼らなりに、冷房の効いたオフィスで仕事をするということに羨ましい気持ちを抱いている。営業もデスクワークもどちらにも良いところがあれば悪いこともある。仕事に不満を持つ場合もしくは転職をする際、労働環境を理由にしてしまうのは相手への印象は悪くなってしまうと思う。オフィスワーカーがその環境を理由にして転職をしても、次も同じような悩みを抱えがちになると思う。だって、隣の芝生は青く見えるから。転職をするためには将来自分が社会に対して何を寄与していきたいのかということを考えて、その会社が社会に何を寄与しているのか考えて、それがマッチするのかどうなのかということで判断するのが、現状に不満を抱く彼らの良い転職になるんじゃないのかな、と思う。

運命に抗うのは相当な体力が要る。世の中には、自分に訪れるはず、もしくは訪れているぢ出来事に抗っている人は相当数いるはずなのに、そういう人とはなかなか出会うことはない。確かに、受身でいることそれ自体が本人の罪でもある。積極性のない行動をしてしまう自責の念を持つべきでは在る。ただ、それを置いておいて話を続けると、むしろ、周辺には自分の未来を諦めて、現状に対して妥協点を見出してなんとか生活を保っている人が多くて、そういう彼らに囲われていると自分の考えが間違っているのではないかという思想に導かれることがある。腐ったリンゴは、隣を腐らすという理論があるが、それはこれを分かりやすく表した喩えであろう。自分には何のスキルも、経験もない。だから生きる価値もない。それならば、現状に感謝をして、今できることを精一杯やってみよう。そういう結論に至ることは至極全うなことだ。それもまた正義であると思う。しかし、たとえそうであっても、自分なんて何者でもなくても、自分でしたいこと夢見ていることを、決して諦めたらいけないと思う。

運命に抗い続ける

運命に抗うのは相当な体力が要る。世の中には、自分に訪れるはず、もしくは訪れているぢ出来事に抗っている人は相当数いるはずなのに、そういう人とはなかなか出会うことはない。確かに、受身でいることそれ自体が本人の罪でもある。積極性のない行動をしてしまう自責の念を持つべきでは在る。ただ、それを置いておいて話を続けると、むしろ、周辺には自分の未来を諦めて、現状に対して妥協点を見出してなんとか生活を保っている人が多くて、そういう彼らに囲われていると自分の考えが間違っているのではないかという思想に導かれることがある。腐ったリンゴは、隣を腐らすという理論があるが、それはこれを分かりやすく表した喩えであろう。自分には何のスキルも、経験もない。だから生きる価値もない。それならば、現状に感謝をして、今できることを精一杯やってみよう。そういう結論に至ることは至極全うなことだ。それもまた正義であると思う。しかし、たとえそうであっても、自分なんて何者でもなくても、自分でしたいこと夢見ていることを、決して諦めたらいけないと思う。

抑圧されていた人が、彼自身の存在を認められたとき、その解放感といったら、相当なものである。俺、私はこう思うんだけど、という考えを常々否定され続けてきた人は、リアルの世界では彼自身の思いを他にぶつけることなしに、穏便に済ませようとして自分を薄めてしまっている。そんな彼らは、インターネットの掲示板やTwitterなんかで自分の思いや考えを発散しては、自分の居場所を探している。時に、彼らの存在(考え)を承認してあげると、「だろ!?」「そう思うよな!」と強圧的になり、溜まっていたものを全て吐き出すように思いを話し始める。インターネットの世界では、彼らのような、ある種の、インフルエンサー的存在が不可欠で、甘く見てはならない。ずっと薄暗い世界でモジモジしていた彼らに市民権を与えてあげることで、コンテンツのバイラル化が巻き起こる。物は使いよう、は真理で何をどうすれば都合の良いように導くことができるのか、というのは広告だけでなく、生きる上での知恵になりそうだ。

承認の力

抑圧されていた人が、彼自身の存在を認められたとき、その解放感といったら、相当なものである。俺、私はこう思うんだけど、という考えを常々否定され続けてきた人は、リアルの世界では彼自身の思いを他にぶつけることなしに、穏便に済ませようとして自分を薄めてしまっている。そんな彼らは、インターネットの掲示板やTwitterなんかで自分の思いや考えを発散しては、自分の居場所を探している。時に、彼らの存在(考え)を承認してあげると、「だろ!?」「そう思うよな!」と強圧的になり、溜まっていたものを全て吐き出すように思いを話し始める。インターネットの世界では、彼らのような、ある種の、インフルエンサー的存在が不可欠で、甘く見てはならない。ずっと薄暗い世界でモジモジしていた彼らに市民権を与えてあげることで、コンテンツのバイラル化が巻き起こる。物は使いよう、は真理で何をどうすれば都合の良いように導くことができるのか、というのは広告だけでなく、生きる上での知恵になりそうだ。

我を貫く、というのはこの世知辛い世の中ではなかなか通用し難いものなのかもしれない。それは時に、個性が強い人と言われるが、時に協調性のない人とも言い当てられる。公と個について論じるとき、日本と欧米が比較されることが多いと思うが、これを例にとっても日本は特に集合体を意識する傾向にある。村社会から組織まで、長が決めた規則に準じた行動をする。はみ出しものは村八分の刑に処され、白い目を向けられる。我道を貫く人は、他者から厭われながらも気にせず自分の道を突き進むことが出来る人のことだろう、と思う。そういう人が大成するためには、結果を残さなければ、誰にも認めて貰えない。成功という結果に至る過程は決まってはいないからこそ、成功すればその過程は正解であったと評価を得られる。疑問なのは、その道標は決まっていないにも関わらず、なぜ別の道を行こうとするものは否定されてしまうのかということ。自分を貫いて生きる人はカッコイイ。そういう人でありたいと思う。

我を貫く

我を貫く、というのはこの世知辛い世の中ではなかなか通用し難いものなのかもしれない。それは時に、個性が強い人と言われるが、時に協調性のない人とも言い当てられる。公と個について論じるとき、日本と欧米が比較されることが多いと思うが、これを例にとっても日本は特に集合体を意識する傾向にある。村社会から組織まで、長が決めた規則に準じた行動をする。はみ出しものは村八分の刑に処され、白い目を向けられる。我道を貫く人は、他者から厭われながらも気にせず自分の道を突き進むことが出来る人のことだろう、と思う。そういう人が大成するためには、結果を残さなければ、誰にも認めて貰えない。成功という結果に至る過程は決まってはいないからこそ、成功すればその過程は正解であったと評価を得られる。疑問なのは、その道標は決まっていないにも関わらず、なぜ別の道を行こうとするものは否定されてしまうのかということ。自分を貫いて生きる人はカッコイイ。そういう人でありたいと思う。

文章を書く天才は、おそらく悩むことなしに、すらすらと文章が湧いて出てくる人のことを言うのかな、と思う。例えば、文章や記事を書くときにはアウトラインを決めて、目次を決めて、見出しを決めて、大枠を箇条書きにしてから、内容に入るというのが書く手順としてはわりと型としてある。その中で、どういう言葉を使うかやどういう表現を用いるかというので個人差があって、チョイスしたワードが読み手に届くか届かないかというのはその選抜した言葉によって変わってくる。でも、文章を書く天才というのがもしいるのだろしたら、おそらくこういう型にははまらずに、頭から尻までスラーって書いちゃうような人なのかな、って思う。他にも、メールを打つときなんかでも言えて、相手を不快にさせずにかつ喜んで貰えてかつテンポが早くて続くようなメールを悩むことなしに打っちゃうような人も、それもまた天才肌なんだろうって思う。目的は、文章を書くことであるから、スムースになろうとしなくていいのだろうけど、ふと文章を書く天才とはどういう人なのかと思ったので、書いてみたのだ。

文章を書く天才

文章を書く天才は、おそらく悩むことなしに、すらすらと文章が湧いて出てくる人のことを言うのかな、と思う。例えば、文章や記事を書くときにはアウトラインを決めて、目次を決めて、見出しを決めて、大枠を箇条書きにしてから、内容に入るというのが書く手順としてはわりと型としてある。その中で、どういう言葉を使うかやどういう表現を用いるかというので個人差があって、チョイスしたワードが読み手に届くか届かないかというのはその選抜した言葉によって変わってくる。でも、文章を書く天才というのがもしいるのだろしたら、おそらくこういう型にははまらずに、頭から尻までスラーって書いちゃうような人なのかな、って思う。他にも、メールを打つときなんかでも言えて、相手を不快にさせずにかつ喜んで貰えてかつテンポが早くて続くようなメールを悩むことなしに打っちゃうような人も、それもまた天才肌なんだろうって思う。目的は、文章を書くことであるから、スムースになろうとしなくていいのだろうけど、ふと文章を書く天才とはどういう人なのかと思ったので、書いてみたのだ。

コピーライターの頭の中は、常に言葉で溢れているという。何のこともない日常生活においても、無意識に、気の利く言葉を使って何かを表現しようとし続けているらしい。それが時に、自己崩壊を招く事態にもなるという。それは彼いわく深刻な問題であるらしいのだ。休憩のときも、人とお喋りしているとき、ご飯を食べているときも、映画を見ているときも、寝るときも、休むことなく言葉を考える。頭の中が常に言葉で占拠されている、というのは実はとてもおそろしいことなのかもしれない。そういう時に、言葉から逃げる方法として彼はダンスをやるという。ダンスを踊っている間は何も考えずに済む、ということらしい。身体を動かしているときは、そっちに集中できるのだろうか。好きなものを仕事にする、というのは理想型かもしれないが、好きなものが嫌いになったときのことを考えると、自分の武器が何もなくなる、ということに繋がる。それは素手で戦場に行くようなものなのだろうか。…しかし、もしものことを考える暇があったら、今できることをすべきだな。もしもは、その時考えればいいのだろうから。

もしもの話

コピーライターの頭の中は、常に言葉で溢れているという。何のこともない日常生活においても、無意識に、気の利く言葉を使って何かを表現しようとし続けているらしい。それが時に、自己崩壊を招く事態にもなるという。それは彼いわく深刻な問題であるらしいのだ。休憩のときも、人とお喋りしているとき、ご飯を食べているときも、映画を見ているときも、寝るときも、休むことなく言葉を考える。頭の中が常に言葉で占拠されている、というのは実はとてもおそろしいことなのかもしれない。そういう時に、言葉から逃げる方法として彼はダンスをやるという。ダンスを踊っている間は何も考えずに済む、ということらしい。身体を動かしているときは、そっちに集中できるのだろうか。好きなものを仕事にする、というのは理想型かもしれないが、好きなものが嫌いになったときのことを考えると、自分の武器が何もなくなる、ということに繋がる。それは素手で戦場に行くようなものなのだろうか。…しかし、もしものことを考える暇があったら、今できることをすべきだな。もしもは、その時考えればいいのだろうから。

自分が収まるべき居場所は、ある程度イメージはついていて、後はそこに収まるだけなのに、イメージ通りの箱が見つからないから、時間だけが過ぎてしまうことがよくある、と思う。試しに箱の中に入って様子を伺ってはみたものの、外見だけで理想と似ていて中身が全く違ったり、内側から見たらカタチが全然違っていたりと、気づくことはたくさんあるのだろうけど、一旦入るとそこから抜け出すことはなかなか容易ではない。だからこそ、何かしらの妥協というものを見つけ出そうとするんだろうけど、一度妥協に慣れてしまうとその後、初心を取り戻すことは難しそう。世の中は、完璧主義者には世知辛いのであろう。

居場所

自分が収まるべき居場所は、ある程度イメージはついていて、後はそこに収まるだけなのに、イメージ通りの箱が見つからないから、時間だけが過ぎてしまうことがよくある、と思う。試しに箱の中に入って様子を伺ってはみたものの、外見だけで理想と似ていて中身が全く違ったり、内側から見たらカタチが全然違っていたりと、気づくことはたくさんあるのだろうけど、一旦入るとそこから抜け出すことはなかなか容易ではない。だからこそ、何かしらの妥協というものを見つけ出そうとするんだろうけど、一度妥協に慣れてしまうとその後、初心を取り戻すことは難しそう。世の中は、完璧主義者には世知辛いのであろう。

人は15歳までに浴びたものでカタチ作られるみたい。15歳までの脳が1番吸収率が高くて、それ以降は吸収がし難くなるという理屈。自分が15歳までのとき、何を浴びていただろうと考えてみる。特に何も浴びていないなって思う。名作と呼ばれる漫画やアニメなんて見ていないし、◎◎図鑑も集めなかったし、小説も大量に読むってほどでもなかった。でも、その分、自分と向き合うことはとてもしていた。自分は何が好きで、何が嫌いで、何が許せなくて、これまでのことやこれからのことをじっくり長時間腰を据えて向かいっていた。人は人のことをすごい否定する。自分と違う考えを受け入れようとはしない。別に人は人、自分は自分で良くないかなって強く思う。人が作った作品に触れることはとても大切だけど、それで自分を見失うことはしたくないなあ。

人は15歳までに浴びたものでカタチ作られるみたい。15歳までの脳が1番吸収率が高くて、それ以降は吸収がし難くなるという理屈。自分が15歳までのとき、何を浴びていただろうと考えてみる。特に何も浴びていないなって思う。名作と呼ばれる漫画やアニメなんて見ていないし、◎◎図鑑も集めなかったし、小説も大量に読むってほどでもなかった。でも、その分、自分と向き合うことはとてもしていた。自分は何が好きで、何が嫌いで、何が許せなくて、これまでのことやこれからのことをじっくり長時間腰を据えて向かいっていた。人は人のことをすごい否定する。自分と違う考えを受け入れようとはしない。別に人は人、自分は自分で良くないかなって強く思う。人が作った作品に触れることはとても大切だけど、それで自分を見失うことはしたくないなあ。

Do as infinityの「深い森」を聞いていた。昔聞いていた時には感じなかった思いを強く感じた。意味がわからなかった歌詞が今の年齢になって読んでみると、心に刺さる。伴さんが歌う声色も好きだけど、Do as infinityの歌詞がとても好きだ。年を重ねるごとに気付くことがある。彼ら彼女らが感じていた思いと伝えたい人達の層に、自分が入ったからなんだろう。同じ人物でも、時と場所と機会が変われば感じることが変わるのは、とても面白いことだ。時代によって、アーティストが世に問いかけるテーマの違いを探るのも面白いのかもしれない。

深い森

Do as infinityの「深い森」を聞いていた。昔聞いていた時には感じなかった思いを強く感じた。意味がわからなかった歌詞が今の年齢になって読んでみると、心に刺さる。伴さんが歌う声色も好きだけど、Do as infinityの歌詞がとても好きだ。年を重ねるごとに気付くことがある。彼ら彼女らが感じていた思いと伝えたい人達の層に、自分が入ったからなんだろう。同じ人物でも、時と場所と機会が変われば感じることが変わるのは、とても面白いことだ。時代によって、アーティストが世に問いかけるテーマの違いを探るのも面白いのかもしれない。